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プロ野球ファンにとって心配なニュースが続きますね。
阪神の藤浪晋太郎投手に続いて元楽天監督の梨田昌孝さんが
新型コロナウイルスに感染し重傷で集中治療室(ICU)で治療中とのことです。
志村けんさんの例がありますので心配ですが何とか頑張って
回復して頂きたいですね。
しめっぽいニュースばかりなので今日は梨田昌孝さんの若い頃、
つまり現役時代のユニークな打法で当時人気のあった梨田昌孝さんに
注目してみたいと思います。
目次
画像と共に梨田昌孝の若い頃を振り返る
名前 :梨田 昌孝(なしだ まさたか)
本名 :梨田昌崇(読みは同じ)
生年月日 :1953年8月4日
出身地 :島根県浜田市
身長 :178 cm
血液型 :A型
投球・打席:右投右打
ポジション:捕手
現役時代所属:近鉄バッファローズ
プロフィールにありますように梨田昌孝さんは島根県浜田市の出身です。
浜田市立第一中学校で野球を始めていますね。
そして進んだ島根県立浜田高校で3年の時春と夏と連続して甲子園へ出場して注目を集め、1971年のドラフト会議で近鉄バッファローズに2位で
指名されて入団することになりました。
高卒ルーキー梨田昌孝さんの球団側からみた魅力は捕手として重要な肩の強さと守備の良さだったそうで広島カープも関心を示していたようです。
先日お亡くなりになったID野球でおなじみの野村克也さんによると、野球はセンターライン(捕手→投手→遊撃手→センター「外野」)の守りが非常に重要だと言っています。
それで打撃はさほどでもなかった言われている梨田少年が2位に指名されたようですね。
ちなみに同期で指名された主な選手を上げてみますと
1位に佐々木恭介内野手、2位が梨田さんで4位に羽田耕一内野手、6位に平野光泰外野手といった後に共に近鉄の主力選手となる人たちがいますね。
そしてプロの水にも慣れてきた2年目から期待に応えて1軍に上がり出場するようになります。
苦労のすえに「こんにゃく打法」で打撃開眼!
いくら守備が良く強肩だとしても野球は点取りゲームです。
バッティング(打撃)が良くないと正捕手にそしてスター選手になることはできませんね。
それで入団後梨田昌孝選手は打撃不振で苦労しました。
年度 | 試合数 | 打率 | 打点 | 本塁打 | 盗塁 | 犠打 | 三振 |
1973 | 60 | 197 | 5 | 2 | 1 | 2 | 20 |
1974 | 115 | 194 | 18 | 2 | 2 | 6 | 41 |
1975 | 45 | 159 | 9 | 2 | 0 | 5 | 15 |
1976 | 48 | 271 | 10 | 3 | 1 | 3 | 13 |
1977 | 80 | 247 | 10 | 0 | 2 | 8 | 29 |
1978 | 58 | 267 | 30 | 7 | 3 | 7 | 15 |
プロ2年目から7年目までの打撃成績です。
2年目から3年間は打率が1割台ですよね。
とても打撃面でチームに貢献できてるという数字ではありません。
なんとか打撃を良くしないと1軍では使ってもらえない数字です。
そこで梨田昌孝は血のにじむような努力をし試行錯誤の上、独自で唯一の
打法!
メデイアでは「こんにゃく打法」(バットを体の前で立て体をくねくねと動かしながら球を待つ打法)と表現した打法を開発しました。
これで8年目からの数字をみれば明らかなように打率2割台中から後半の
数字を出せるようになりレギュラーとして恥ずかしくない打撃をできるようになりましたね。
体の力を抜きリラックスできるように体をくねくねと動かし来る球に自然と体が反応できるような工夫をしたんだと思いますね。
そこで正捕手として135試合のほとんどに出るようになったかというと、そうはいきませんでした。
チーム内に強力なライバルがいたのです。
有田修三捕手です。
2人の正捕手がいて、しかも1年や2年ではなく長い期間にわたって続くというのは長いプロ野球の歴史の中でも唯一の珍しいケースです。
2人とも、どこの球団にいっても正捕手になれる力がある、と当時いわれた実力者です。
そんな力があるのに年間で出場する試合は半分程度ですから、1流選手でありながら給料も半分なわけですよね。
不幸だったのか?良かったのか?
当人たちはどう思っているのか聞いてみたいですね。
あるメデイアが2人についてこう書いてある記事がありました。
有田修三&梨田昌孝”ダブル正捕手”ありなしコンビ
どちらが正捕手でもおかしくない実力者だった有田と梨田の通称
「ありなしコンビ」。西本監督時代から併用され、有田が巨人にトレードされた85年まで続いた。有田はエース鈴木啓二が先発のときはほとんどマスクをかぶっていた。強肩とコンニャク打法で鳴らした梨田は引退後00年に監督に就任。01年には近鉄最後の優勝監督になった。オリックスとの合併が決まった04年、最終戦前に選手たちに語った「お前たちの背番号はすべて近鉄バァローズの永久欠番だ」という名言は永久に不滅だ。
「あり」と「なし」とは偶然とはいえおもしろい組み合わせですね。
梨田昌孝の経歴と現在
コンニャク打法を開発し打てる捕手として名を成した梨田昌孝さんですが
打てるようになったと言っても他の大打者たちと比べると打者としての
タイトルを取ったこともないですし生涯の成績も飛び出たものはありません。
しかし彼の捕手としての専門家の評価は非常に高いのです。ですから監督のオファーも多いのだと思います。
何が評価されたのか?
それは、やはり守備と強肩です。
なぜなら梨田選手の時代、パリーグには世界一の盗塁王がいたからです。
13年連続盗塁王、通算盗塁数世界記録(1991年メジャーリッキー・ヘンダーソンに破られるまで)年間盗塁数歴代一位。
世界の盗塁王と呼ばれ国民栄誉賞(当人の意志で辞退)授与が決まったほどの選手で当時の各球団は彼の盗塁の阻止にやっきになりましたが結果として走られ放題でした。
そうした中で梨田捕手も福本対策に悩むことになりますが、やがて福本選手が一塁へ出塁すると、あえて右足を引き捕球のときから投げれる工夫をしました。
あるいは当時は珍しい捕手からの牽制球でリードを大きく取りにくくしたりなどして、パリーグの中で唯一、福本選手に簡単には走らせなくなった捕手なのですね。
これで梨田捕手は4年間ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞しました。
打者でも1979年に本塁打を生涯最多の19本塁打、その翌年には打率2割9分2厘の自身最高打率を残しました。
そしてチームも2年連続で優勝しこれを挟んで3年連続でベストナインに選ばれチームの主力として活躍しています。
引退後から現在までの梨田昌孝!
引退後にはNHKの野球評論家として活躍し全国区顔を知られるようになります。
元野球選手には珍しくソフトな雰囲気と端正な顔立ちでいいイメージが
国民の間で定着したように思います。
しかし現場に戻ります。
1993年から近鉄のコーチとして復帰しました。
そして96年には2軍監督、そして2000年に1軍の監督に就任します。
それから球団が無くなる2004年まで監督をつとめ近鉄最後の監督となりました。
その間優勝1回成し遂げています。
その後NHKに戻り解説者をしていましたが、2008年に日本ハムの監督として現場に再び戻ることになります。
そして日本ハムでも2年目の2009年に優勝を飾り4年間働きました。
退任後はやはり解説者に戻りましたが、この人の指導者としての球界での評価は高いんですね。
2016年から楽天の監督に就任し2018年までつとめました。
監督通算800勝、2度の優勝、など名将としての成績を残しています。
まとめ
梨田昌孝さんの若い頃から現在までの野球人としての足跡を画像とともに
振り返ってみました。
大選手といわれる人々と違ってコツコツと自分に出来る努力をひたむきに続けて競争の激しい世界で生き抜いてきた人で私たち一般人にとっても
非常に励みになる歩みだなと感じさせる素晴らしいひとですね。
紳士で男前、温和で笑顔の似合う野球人です。
病床からの回復が待たれます。