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野村と王
画像:共同通信

プロ野球野球人「野村克也」が逝ってひと月が過ぎました。
すばらしい実績の選手はたくさん、おりますが野村克也ほど

野球人でありながら多くの人を築き上げる「言葉」を残した人は
いないと思います。

いわゆる野村の「名言集」「ぼやき」「語録」「野球論」などなどですね。

野村克也(ノムさん)伝説!語録と名言集まとめ

多くの人がこれについては伝え、また著書なども出ていますので、
当サイトでは野村克也が語った日本の歴代の名選手、あるいは監督などの

評価、コメント、感想、ボヤキなどを特集してみたいと思いました。

第1回は世界のホームラン王「王 貞治」さんです。

目次

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野村克也が評価コメントする歴代の名選手達-王貞治編

王貞治世界記録

野村克也さんの最愛の妻「沙知代」さんがお亡くなりになり、その
「お別れ会」の発起人を務めた王貞治さんに感謝を兼ねて手紙を書いています。

その冒頭で野村克也さんはこう書いています。

野村克也氏が60年超のプロ野球生活の中で、間違いなくNO・1の打者と断言するのが、王貞治氏だ。

通算本塁打数は、868本の世界記録を樹立した王氏に次ぎ、野村氏は657本で歴代2位。

1963年野村克也さんがシーズン本塁打の日本新記録52号を放った翌年、55本を叩き出して記録を更新したのが王貞治である。

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野村克也が王貞治に敵対心を抱くようになった出来事!

王さんへの手紙の中で野村克也さんは自分のホームラン日本記録更新の経過とすぐに王さんに更新されたことに関し、長々と書きつ刷り

当時の野村さんの思いを吐露しています。
長いですが以下に全文引用しますね。

さて、ここからは俺のホームランに関する話を少しさせてくれ。63年、シーズン本塁打の日本新記録(当時)! となる52号を打ったときのことだ。

10月17日、本拠地・大阪球場での近鉄戦。すでにシーズン最終戦だった。この試合で本塁打が出なければ、それまでの日本記録だった松竹・小鶴誠さんの51本とタイ記録のまま、シーズンを終えなければならない。

試合はすでに終盤。これが最終打席、と覚悟した。マウンドには、山本重政という若い右ピッチャーだ。この山本と児島(弘義)、同じバッテリーから俺は前年の最終戦、パ・リーグ記録を更新する44号を放っていた。二度も俺の記録達成に貢献してはかなわんと思ったのだろう。ましてや日本記録ともなれば、自分の名前まで残ってしまうからな。

外角、外角……と3つ続けて、外してきた。しかし俺だって、そこで歩いても仕方ない。「最後のチャンス」と思って、グッと踏み込み、半ばヤケクソでバットを振った。ほとんど目をつぶってエイヤッと打ったようなものだったが、打球は弾丸ライナーとなってショートの頭を越え、レフトスタンドに突き刺さった。

日本新記録達成だ。チェンジになって守りに行く前、レフトの土井正博が「フェンスからほんの10センチくらい上だったんですよ」と教えてくれた。

後日、山本の談話を聞いた。あまりにも露骨に歩かせるのは嫌だったので4球目、インコースへボール球になるシュートを投げるつもりだった。ところがその球が指に引っ掛かり、やや外角寄りの真ん中低めに投げてしまったそうだ。俺はストレートだとばかり思っていたのだが、シュートの投げそこないだったのだな。

俺はそのとき、「野球の神様っているんだな」と思ったよ。最終戦の最終打席でそんなことが起こり、俺が日本新記録を達成したんだ。きっと野球の神様が、山本に「堂々と勝負しろ」と言ったに違いない、と。

俺は爽快な気持ちだった。野球に打ち込み、懸命に練習していれば、野球の神様は見てくれているのだと思った。一方であまりに神がかり的な記録だったので、その反動も怖かった。いいことがあれば、悪いこともある。今度は神様にそっぽを向かれるんじゃないかと不安になったんだ。

とはいえ、記録は記録。俺が小鶴さんの記録を塗り替えたのは13年ぶりだったのだから、俺の記録も10年くらいは破られないだろうと思っていた。

ところが、だ。続きは知っての通り。お前が翌年いきなり55本を叩き出し、わずか1年で俺の記録を抜いてしまった。俺は正直、腹が立ったよ

「少しくらい楽しませろよ」と思ったよ。以来、ワンちゃんを余計、ライバル視した。『敵対心』という言葉のほうが、合っているかもしれないな。「俺の価値を下げた男」として見るようになったんだ。

引用:Spoytsnavi野村克也からの手紙

野村さんがこの手紙を書いたのは妻沙知代さんが亡くなった後ですから
80歳をはるかにすぎた、つい最近です。

その野村さんが当時のことを鮮明に覚えているのは驚きです。
それだけ心のひだにこびり付くような出来事だったのでしょう。

悔しくて悔しくて眠れない日が続いてのではないかと想像されます。

しかしこの後、強烈に意識するゆえに王貞治のその「凄まじい努力を」知ることになります。

コーチの荒川博さんと共に『一本足打法』を完成させるための誰にも真似ができないような練習の凄さを知ったのである。

このころのエピソード野村さんはこう語っています。

この一本足打法を極めようとしていたころのことは、決して忘れない。俺が銀座で飲んでいたら、偶然同じ店にワンちゃんが入ってきた。
俺はうれしくて、「一緒に飲もう」と同じテーブルに誘い、ワイワイやっていた。すると午後9時を回ったころ、お前は「ノムさん、悪いけどお先に失礼します」と言って、腰を上げた。

「おいおい、まだ早いやんか。久しぶりに会ったんだから、もうちょっと遊んでいけよ」  俺がそう言って引き留めると、お前は「いや、荒川さんが待っているので、行かなければなりません」と言った。

俺は「えっ!? これから素振りに行くの?」と驚いたが、「じゃあ、俺が荒川さんに“今日は休ませてください”って電話してやるよ」と、なおも誘った。

しかしワンちゃんは、「それだけは勘弁してください」と笑いながら、店を出た。

お前の姿を見送ったあと、俺はなんとも言えない気持ちになったよ。片や銀座で夜遅くまで遊んでいる。片や時間を守り、きっちり師匠のもとへ素振りのルーティンを果たしに出かける。

ああ、いずれアイツに追い抜かれるんだ」と、俺は思った。

野球の神様は、やはり公平だった。

引用:Spoytsnavi野村克也からの手紙

 

監督・王貞治についての野村克也の評価?

実は監督となった王貞治さんを野村さんはあまり評価していなかった。

印象としては強打者だった王貞治さんらしく攻撃野球で攻め方もオーソドックスだといっている。

そして選手に対する接し方に触れ

自分のほうから目線を下げ、選手のところまで下りていった。
しかし、いくら距離が近づいたといっても、チームが得点を挙げたときなど選手と一緒に万歳をして喜ぶのは、俺はあまり賛成できなかったな。

やはり監督には監督らしく、ベンチでドンとしていてほしかった。

ところが最後はやはり監督「王貞治」を評価することになるのである。

上記のように指導者としてのやり方は自分と違うが「やり方、ノウハウ」などを超越した「王貞治」の人間力に脱帽しているのです。

こう述べています。

王さんのチームの選手たちは「王さんを胴上げしたい」という強い思いがあり、みんなに慕われそして実際に「ホークス王国」を作り上げた。

とその手腕をみとめているのです。

そして野村さんらしくボヤキ的に最後にこんなことを言っています。

「俺はホークスに育てられ、ホークスに捨てられて縁がきれている(南海ホークスのことで現在のソフトバンクが買収し今日に至っています。)

そのホークスが王貞治によって生まれかわり現在会長職で常勝ホークスが球界を盛り上げている。」

わんちゃん(王貞治の愛称)には勝てない!
とぼやいているように聞こえました。

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